下野市と文化財

下野市(しもつけし)はどんなところ?
下野市は、栃木県の中南部にあり、南北が約15.2km、東西が約11.5kmで、長靴(ながぐつ)のような形をしています。面積は74.58平方キロメートルで、栃木県内で一番ちいさな市です。(ディズニーランド約150個分)北は宇都宮市、南は小山市、東は真岡市(旧二宮町)と上三川町、西は栃木市と壬生町に接しています。
東に鬼怒川(きぬがわ)と田川(たがわ)、西に思川(おもいがわ)と姿川(すがたがわ)が流れ、高低差がなく平坦で、自然災害(しぜんさいがい)の少ない地域です。 JR宇都宮線の小金井、自治医大、石橋駅周辺を中心に市街地が広がり、周辺には田園地帯(でんえんちたい)が広がっています。
 
下野市の歴史(れきし)
下野市内では、旧石器時代(きゅうせっきじだい・今から1万年以上前)から人がいた跡が見つかっています。古墳時代には三王山(さんのうやま)地区周辺で古墳(こふん)がつくられるようになり、古墳時代の終わりころには、国分寺(こくぶんじ)地区を中心に大きな古墳がつくられました。
奈良時代になると日本三戒壇(さんかいだん)の一つである下野薬師寺(しもつけやくしじ)のほか、下野国分寺(しもつけこくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられるなど、古代の下野国(しもつけのくに)の中心地として栄えました。
その後、中世(ちゅうせい)になると、下野市周辺は北の宇都宮氏と南の小山氏の勢力(せいりょく)がぶつかる場所であったことから、児山城(こやまじょう)、薬師寺城(やくしじじょう)、箕輪城(みのわじょう)をはじめとしたがつくられました。
江戸時代には、五街道(ごかいどう)のひとつである日光街道(にっこうかいどう)が下野市内をとおり、小金井や石橋が宿場町(しゅくばまち)となりました。明治時代になると陸羽街道(りくうかいどう)や東北本線が整備されるなどして発展してきました。
その後、南河内町(昭和30年4月に吉田村と薬師寺村が合併し南河内村となり、昭和46年4月に南河内町となる)・石橋町(昭和29年11月に姿村と合併して石橋町となる)・国分寺町(昭和29年4月国分寺村から国分寺町となる)が、平成18年1月18日に合併し『下野市』となりました。
 
下野市の文化財
下野市内には数多くの文化財が残されています。特に大きな古墳(こふん)が多いことや、下野薬師寺(しもつけやくしじ)のほか、下野国分寺(しもつけこくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)などのお寺が建てられるなど、史跡(しせき)が多く残されています。江戸時代以降は、五街道(ごかいどう)のひとつである日光街道(にっこうかいどう)のほか関宿通多功道(せきやどとおりたこうどう)が通るなど、交通の要衝(ようしょう)だったことや、徳川将軍(とくがわしょうぐん)の日光へのお参りの際にも慈眼寺(じげんじ)や開雲寺(かいうんじ)に休憩所(きゅうけいじょ)が設けられたことから、比較的新しい時代の文化財も多く見ることができます。