下野市の文化財

小金井一里塚

文化財の詳細情報

発掘調査の状況

▲発掘調査の状況

日光街道は、東海道(とうかいどう)・中山道(なかせんどう)・甲州街道(こうしゅうかいどう)・奥州街道(おうしゅうかいどう)とともに五街道(ごかいどう)といわれ、江戸時代の重要な道路で、江戸の日本橋から日光までを結ぶ道でした。おもに、徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ)の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)参詣(さんけい)や、大名の参詣のほか、庶民(しょみん)の参詣や通行、荷物の運搬(うんぱん)に使われました。街道の途中には21か所の宿場(しゅくば)があり、旅籠屋(はたごや)などがありました。
 一里塚は、この街道沿いに、江戸日本橋から1里(約4km)ごとに街道の両側につくられた1辺5間(けん)(約9m)の四角形の塚のことで、距離(きょり)や、荷物運搬(にもつうんぱん)の料金のめやすとして使われました。江戸時代の終わりころの記録(きろく)から、東側の塚に松(まつ)、西側の塚に杉(すぎ)が植えられていたことが分かりますが、現在は東側が榎(えのき)、西側に榎と椚(くぬぎ)が植えられています。