下野市の文化財

  • 鉄砲打通報の高札
    てっぽううちつうほうのこうさつ
  • 文化財の種類
  • 考古・歴史資料
  • 文化財指定団体
  • 文化財が造られた時代
  • 江戸時代
  • 概要
  •  この高札は、江戸時代秋田藩佐竹氏の領地であった町田村において実際に掲示されたものと考えられます。内容は、無許可に鉄砲を撃つ者や「留場(とめば)」といわれる領主が定めた禁猟区の中で鳥をとる者を捕まえるもしくは見つけた者は、訴え出ることを村人に知らせたものです。また、その場合には褒美を出すとして鉄砲撃ちの密告を促したものです。

鉄砲打通報の高札

文化財の詳細情報

 この高札は、江戸時代秋田藩佐竹氏の領地であった町田村において実際に掲示されたものと考えられます。内容は、無許可に鉄砲を撃つ者や「留場(とめば)」といわれる領主が定めた禁猟区の中で鳥をとる者を捕まえるもしくは見つけた者は、訴え出ることを村人に知らせたものです。また、その場合には褒美を出すとして鉄砲撃ちの密告を促したものです。
 
 この法令は、江戸時代の中期にあたる享保6年(1721)に幕府が定めたもので、享保元年(1716)の幕府の鷹場支配を受けて、江戸を中心として10~20里の範囲の地域は、幕府領・大名領・旗本領などの支配を越えて狩猟を規制しました。こうした制度を受けて、この高札のように密猟者の取り締まりや探索を強化するために、褒美による通報を促す政策が採られ幕末まで継承されました。高札文面の末尾に「塩谷伯耆(しおのやほうき)」とありますが、この人物は文献より秋田藩の家老であったことが確認されました。このことから秋田藩領内で使用されたものであると判断でき、当時の町田村が佐竹氏の支配を受けていたことから、江戸時代に町田周辺で使用されたものと考えられます。

【原文】 定 在々にて若鉄炮打候はば申出べし、并御留場之内にて鳥を取申もの捕候歟見出し候はば早々申出べし、急度御褒美可被下置者也  享保六年二月日  右之趣従 公儀被仰出候間、堅可相守之旨被下知訖、仍如件  塩谷伯耆(花押)
【訳】 定 所々において、もし鉄砲を撃つ者がいたら申し出ること。また狩猟を禁じた土地の中で鳥を取る者を捕らえるか見つけた者はすぐに申し出ること。必ず褒美を出す。  享保六年二月日  右のことは、幕府よりの指図であるので、かたく守るように指示する。  塩谷伯耆

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