しもつけ人物伝

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  • 下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)
  •  下毛野朝臣古麻呂(?~709)は、もともと下野の在地豪族出身で中央貴族化した下毛野氏を代表する人物です。7世紀後半から8世紀初めかけて中央政界で活躍し、下野薬師寺の創建に関わったと考えられています。
     古麻呂が初めて史料に登場するのは、『日本書紀』の持統3年(689)10月が最初で、この時すでに中央貴族である直広肆(じっこうし・大宝律令では従五位下に相当)の地位にありました。その後、大宝律令の選定に携わった功績から、当時の大臣にあたる兵部卿や式部卿を歴任しましたが、和銅2年(709)12月に亡くなりました。その時古麻呂は「式部卿大将軍正四位下」の地位で、文官としてだけでなく武官としての立場ももっていたことを示しています。

  • 道鏡(どうきょう)
  •  道鏡(?~772)は河内国若江郡の弓削郷(大阪府八尾市)の出身で、孝謙太上天皇(後の称徳天皇)の信任を得て天平神護元年(765)には太政大臣禅師となり、翌年には天皇に次ぐ地位である法王にまでのぼりつめました。しかし、宝亀元年(770)8月に称徳天皇(重祚後)が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡は、造下野国薬師寺別当として下野国に配流されました。
     下野国での道鏡の動向は不明ですが、宝亀3年(772)4月、道鏡は下野の地で亡くなりました。その葬送については「死するときは庶人を以てこれを葬る」と明記されていることから、一般庶民と同様な扱いであったと考えられますが、龍興寺境内の古墳が「道鏡塚」として伝えられています。

  • 孝謙天皇(こうけんてんのう)
  •  孝謙天皇(718~770)は天平勝宝元年(749)から天平宝字2年(758)に在位した、史上6人目の女帝で、淳仁天皇に譲位した後に、天平宝字8年(764)に称徳天皇として重祚し神護景雲4年(770)に亡くなりました。下野薬師寺に配流された道鏡を寵愛し、天皇の位に次ぐ法王にまで任命しました。
     下野市内の上大領には「孝謙天皇神社」が存在し、配流された道鏡を追って下野国まできましたが、会うこともなく亡くなったため、孝謙天皇神社付近に葬ったという伝承が残されています。

  • 薬師寺公義(やくしじきみよし)
  •  薬師寺公義(生没年不詳)は、南北朝時代に活躍した武士で、小山氏の流れをくみ、市内の薬師寺に本拠を置いたと考えられますが、摂津国に本拠を置く橘系の子孫とする説もあります。
    室町幕府の奉行人として活躍した後、執事高師直の近臣となり、その守護国である武蔵・上総の代官を勤めますが、観応の擾乱で師直が敗れると、出家して高野山に入ります。しかし、約半年で還俗し、関東に移った足利直義を攻めるため、宇都宮氏を尊氏方に誘って、その勝利に貢献します。1351年(観応2年・正平6年)には子の公光等とともに、日光山の堂宇の修理を記録した棟札を奉納したほか、1352年(観応3年・正平7年)には、武蔵国で新田軍と戦いました。更に1373年(応安6年・文中2年)には、幕府の使節として鎌倉に下向しています。公義は永徳年間(1381~83)に七十余歳で没したのではないかと考えられます。また、公義は武士としてだけでなく、歌人としても有名で、二条為定に師事し、歌集「元可法師集」を残しています。

  • 児山朝定(こやまともさだ)
  •  児山朝定(生没年不詳)は、宇都宮頼綱の次男・多功宗朝の子とされている人物で、現在栃木県指定史跡となっている児山城を築城したと考えられています。どのような人物であったかは史料がなく、詳しくはわかりませんが、弘安6年(1283)に宇都宮城内の一向寺三世一道上人を招いて児永山大通寺光明院(今の華蔵寺)を建立したともいわれます。

  • 芳賀高経(はがたかつね)
  •  芳賀高経(1497~1541)は、真岡城を本拠とする宇都宮氏の重臣です。天文5年(1536)に主君である宇都宮興綱を謀殺した後、興綱の子俊綱を擁立して家督を継がせ、宇都宮家中で大きな勢力をもっていました。その後、宇都宮俊綱と対立するようになり、天文7年(1538)に身の危険を感じて児山城に籠城したとの記録が残されています。結局大きな戦となることなく、小田政治の仲介により芳賀高経は児山城を出ることとなり、籠城事件は解決しましたが、高経は天文10年(1541)に宇都宮俊綱により殺害されてしまいました。

  • 元寿僧正(げんじゅそうじょう)
  •  元寿僧正(1575~1648)は、天正3年(1575)市内田中の野口家に生まれました。14才にして出家して受戒し、結城釈迦堂において修業しました。その後、慶長8年(1603)には奈良の長谷寺、更に京都の智積院の玄宥(げんゆう)、祐宜(ゆうぎ)、日誉(にちよ)三代の化主(住職)に歴事し、その間徳川家康や徳川秀忠に進講するなどしました。寛永8年(1631)智積院に移り住み、僧正となり第四世化主となった後、慶安元年(1648)、74才で亡くなりました。

  • 佐藤功一(さとうこういち)
  •  佐藤功一(1878~1941)は、戦前の建築界を代表する人物で、先代の栃木県庁舎(現在の昭和館)を建築したことで知られています。佐藤功一は市内小金井の大越家次男として誕生し、栃木県尋常中学科第5級まで栃木県で学びました。その後、東京の錦城中学、仙台の二高を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み、明治36年(1903)に卒業。学生時代に大工棟梁の佐藤茂八宅に下宿したことが縁となり、佐藤家の養子となりました。卒業後は、三重県技師・宮内庁内匠寮を経て、早稲田大学の建築科創設主任として活躍し、同大学の基礎を築きました。大正7年(1918)には小石川の自宅に建築事務所を開設した後は、建築設計に全力を注ぎました。手がけた作品は、早稲田大学大隈記念講堂や日比谷公会堂など233件にのぼり、作品の特徴は、ルネサンス様式を基調とした明快さとロマン主義の調和した作風にあるといいます。昭和16年(1941)5月には帝国芸術院会員に推薦されましたが、6月に自宅で多彩な生涯を終えました。